デイリーコラム 思い出の『HEAVEN』 金田善裕

投稿日時 2009-3-1 17:37:46 | トピック: 奇天烈

 香山リカさんの『ポケットは80年代がいっつぱい』を読んでいて、『HEAVEN』(以下ヘブン)のことはよくでてくるのだが、ある意味では後期ヘブンの話で、自販機の前に行列ができた当時の若者たちにセンセーショナルな話題をもたらしたヘブンの話と少し違いを感じたので、それならぼくのヘブンの話も書いておくかという気になった。
 ヘブンは高杉弾、こと佐内純一郎が編集長だった時期と近藤十四郎が編集長だった時期がある。
 ぼくは高杉弾が編集長だった時代の編集者で、途中で高杉に腹を立ててやめてしまっている。だから、後期のことについては、くわしくはない。ただ、高杉がやめてからも山崎春美が編集長だった時代はないはずで、少なくとも近藤十四郎とぼくの認識ではそうである。山崎春美が編集長だった時代があるとすれば、音楽雑誌フールズメイト内に雑誌内雑誌としてできてからだろう。
 よく山崎春美が編集長だったという話を聞くことがあるが、本当のところ雑誌としてヘブンが成立していた時代に山崎春美が編集長だった時代はないはずなのである。

 さて、ぼくがヘブンの編集者になるには、その前に話しておかなくてはならないことがある。それは下北沢の古書店である日『JAM』という雑誌を見つけたことから始まる。パンクの雑誌だった。音楽のパンクではない。パンクを雑誌でやるとこうなりますという雑誌だった。購入した号にはなく、あとから知ることになるのだが、すでに山口百恵宅のゴミ箱あさりをやっていて、山口百恵のゴミらしきものが誌上で公開されていた。
こういうジャンルがアートにあるわけではないが、一種のスキャンダラス・アートともいうべき行為だったと今思う。村崎百郎の前に先人がいたわけである。
 この雑誌に衝撃を受けたぼくは、ハガキの裏に自作の小説を書いて編集部に送った。そして数日後、電話をかけると編集長の高杉弾に遊びに来ないかと言われることになる。 ぼくは当時、じゃがたらのメンバーだったか、でなかったかあいまいなところだが、とにかくじゃがたらの江戸アケミとはよく一緒にいて、すでに同じアルバイトをしていたのかもしもれない。
 こんな話があると江戸アケミに話すと、一緒に来るというので、二人で編集部まで訪ねていった。たしかエルシー企画という名前の会社で高田馬場にあったような、覚えがある。
 江戸さんは、彼は大学の一年先輩にあたるので、時々こういう敬称がつく、大きなラジカセでアフリカン・ミュージックか何かをかけて階段からマンションの一室にあった編集部までそのままで通した。佐内純一郎はなにも言わず、やあやあと小説が面白かったというような話をしてくれた。室内にはほかの編集部もいくつもあったのだが、江戸さんのかけるバカでかいアフリカン・ファンクの音にだれもなに一つ言わずにいた。
 ぼくはそのときに『JAM』が当時儲かって仕方のなかった自販機雑誌の会社の税金対策のために作られているというような話を聞いた気がする。大学でミニコミを作っていたら、いきなりここの社長に雑誌を作れと言われて作ったのだと言われたような覚えがある。
 そんな話を三十分か1時間ほどして帰ってきたわけだが、帰りに江戸さんが一言、ぼくにもらした、「信用できるか、信用できんかはわからんが、あの男はこれに(ラジカセに)一言も言わんかったな」この一言が記憶に残っている。
 ぼくは江戸さんのそういう面をみた。
 今日はここまで



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